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千葉の地域紹介

「水と緑と歴史のまち・流山」を失ってはならない

自治研ちば vol.13(2014年2月)より転載

<シリーズ千葉の地域紹介>

…流山市職員組合 梶間 恒夫

静かな佇まいの利根運河(流山)

人口はもうすぐ17万人

流山市は、もうすぐ17万都市になろうとしている。1967年(昭和42年)の市施行時は、42,649人であった人口は、2013年(平成25年)12月1日現在で169,371人である。

千葉県の北西部に位置し、都心から30㎞圏内、面積は県内で5番目に小さい市である。東は柏市、西は江戸川をはさんで埼玉県三郷市、吉川市、北は利根運河をはさんで野田市、南は松戸市に隣接する流山市は、市境をなぞるように鉄道が走り、へそのないまちといわれてきた。

1960年代前後から宅地開発始まる

柏駅から野田市に向かう東武野田線に豊四季、初石、江戸川台、運河の4駅。江戸川台駅開設と同時に江戸川台団地が1958年(昭和33年)に誕生。柏駅から松戸市に向けて、1953年(昭和28年)に南柏駅ができ、1957年(昭和32年)に南柏団地(現松ヶ丘団地)が誕生した。

また、1969年(昭和44年)、132.5haに及ぶ南流山土地区画整理事業が認可され、1973年(昭和48年)4月に武蔵野線が開業、新松戸駅から三郷市に向けて、南流山駅が開設され、1989年(平成元年)2月、20年かけて区画整理事業は完成し、南流山が誕生した。

歴史のまち、流山を末永く保全を

しかし、人口は増えたものの、江戸川台も松ヶ丘も南流山も市の中心にはなりえず、市のなかでも西に位置する流山市役所周辺が中心地である。そこは、流山市の歴史のまちでもある。市役所から半径1㎞以内にそれはある。

江戸時代、みりんの流山全国へ

江戸時代中期より「味醂は流山」と江戸、京都、大阪で名を馳せた。1782年(天明2年)五代目秋元三左衛門は白味醂「天晴」、1814年(文化11年)相模屋の二代目堀切紋次郎は「万上」白味醂。うなぎのたれ、そばのつゆなどの調味料として使われ、お酒、お屠蘇として、とりわけ女性に人気であった。

秋元三左衛門は俳号をもち秋元双樹として小林一茶と親交厚く、その足跡は現在、流山市の一茶双樹記念館に収められている。

また、堀切紋次郎は、「関東の 誉れはこれぞ一力で 上なきみりん醸すさがみや」と謳い、一力の二文字を併せて「万」と読み、上なき味醂の「上」と重ねて「万上」というブランドが生まれた。1917年(大正6年)設立の万上味醂株式会社は、1925年(大正14年)の野田醤油醸造と合併し、現在〈万上〉はキッコーマンのブランドとして名を残している。

今日、みりんにこだわる流山市民は、江戸時代を再現しようと「飲めるみりん」に着手。昔ながらの製造法でゆっくりと時間をかけて国産もち米100%の『古式作り流山極上本みりん』が出来上がった。醸造元は利根運河沿いにある「窪田酒造」(野田市)、発売元は地元の「㈲かごや商店」。流山ブランドとして全国へ広げようとしている。

近藤、土方別離の地流山

幕末、敗走する新選組がたどり着いたのが流山。 1968年(慶応4年)三月のこと。近藤勇と土方歳三は流山の酒造家長岡家に入り態勢を立て直したが、新政府軍に取り囲まれ、近藤は新政府軍に出頭し、板橋で処刑。土方は隊士を率いて北進し、会津戦争を戦い、箱館で銃弾に倒れるが、流山は近藤と土方の別離の地として現在陣屋跡がある。

明治に入り流山町は県庁所在地

1867年(慶応3年)大政奉還により、流山周辺は葛飾県となり、1869年(明治2年)1月に県庁が流山に移され、1871年(明治4年)廃藩置県が断行され、印旛県葛飾郡になる。流山は最初の県庁所在地であった。現在葛飾県、印旛県跡が、流山市図書・博物館の敷地内にある。

山が流れる・・流山の由来?

流山の由来はどこからくるのであろうか。先に述べた秋元双樹の墓と連句碑のある光明院が一茶双樹記念館から100mほどのところにあるが、そのお寺の本堂の裏に、樹木に覆われた小高い山がある。その山に、赤城神社がある。建長年間(1249~56年)に上州の赤城山の一部が崩れて当地に流れ着いた。あるいは、洪水のとき上州赤城神社のお札がこの山に流れて来たなど赤城神社の碑文は伝え、〈流るる山〉が転じて〈流山〉となったといわれている。

大正時代、流山町民待望の流山軽便鉄道の誕生

流山電鉄 流山市役所へ電車で行くには、常磐線馬橋駅から流鉄流山線に乗り換え、総延長5.7km、12分で終点流山駅に着く。そこから徒歩5分で市役所だ。この鉄道は1916年(大正5年)開業、流山軽便鉄道といった。当時は、流山町民にとっては「待ちに待った鉄道」であった。

江戸時代から水運栄え、明治にできた利根運河は近代化を読めず

「流山は、江戸時代から明治にかけて水運で栄えた。江戸川には銚子から利根川にいたる船の航路が開設され、流山は絶好の集散地となった。明治になり貨物の輸送が増えるにつれ、利根川から江戸川に行くのに関宿経由であったのをオランダ人ムルデルにより1890年(明治23年)利根運河が完成し、遠回りすることなく江戸川に出、銚子―東京間を6時間短縮した。

利根運河の重要性が増していくなか、同時に鉄道建設の動きも始まった。 流山を通るルートもあったが、町民は水運を選択。ところが、6年後の1896年(明治29年)日本鉄道土浦線が開通すると、それまで蒸気船で一泊2日要した都心までがわずか2時間で結ばれた。流山にとっては、まさに水運と鉄道のハザマにあった時代といえよう。

明治後期、時代に翻弄された流山

1911年(明治44年)には野田・柏間で県営の軽便鉄道が開通。時代は水運から鉄道に大きく変わっていった。こうした時代の波に乗れず、遅れを取りながらも作られたのが「流山軽便鉄道」であった。しかし、その鉄道の延長は思うようにいかず、流山を縦断することはなかった。

戦時中は軍事施設であった平和台駅周辺

戦時中は、兵士の食糧と軍馬の飼料を管理する「陸軍糧秣本廠流山出張所」が現在の流鉄流山線の平和台駅の南西側に作られた。糧秣廠とは、日本陸軍の糧秣を保管、供給する軍事施設。糧秣本廠は、深川越中島にあったが、向島区本所の軍馬用の食糧倉庫が手狭になったことと飼料(干し草)の自然発火の可能性などがあったため流山出張所が設置された。

皮肉にも江戸川の水運と常磐線や流山線の鉄道が物資輸送の有利な立地条件となった。軍事施設であることから、アメリカ軍の標的となり、爆撃機B29の攻撃をしばしば流山町は受け、倉庫への攻撃や本鉄道の列車が攻撃され機関士が重傷を負うこともあった。

敗戦後、流山にあった糧秣廠は廃止となり、キッコーマンなどに払下げとなった。水路や引き込み線などの痕跡がわずかに残っている。また、干草稲荷や流山糧秣廠跡の碑をみることができる。こうしてみると、流山本町は歴史のまちとしてあり、市を囲むように沿線は開発が進み、住宅都市として発展していったといえよう。

「へそのないまち」を返上できるか

そして、2005年(平成17年)8月24日、市を縦断するようにつくばエクスプレス(TX)が開通。市内に南流山駅、流山セントラルパーク駅、流山おおたかの森駅が開設された。都心部から30㎞圏内を縦断する鉄道の開通は市外からの転入者を増やし、開業8年で16,000人増え、高齢化社会と言われている時代、年齢別人口では60歳~64歳の団塊の世代を35歳~39歳が上回ることとなった。

流山市の中心駅は、流鉄の流山駅であるが、JR武蔵野線開業で中心駅機能は南流山駅に移り、TX開業で中心機能は流山おおたかの森に移りつつある。冒頭で言ったへそのないまち、中心のないまちと言われてきた流山市は、流山おおたかの森駅周辺が中心核となりつつある。

大開発の代償・・ 「都心から一番近い森のまち」の空虚さ

ただ、宅地開発と一体となるものであることから、その沿線は、開発が進み、638.8haもの宅地造成が行われている。それは市の総面積3,528haの18%に匹敵し、すでに開発された江戸川台、松ヶ丘、南流山、平和台、野々下、宮園、東深井など加えると、「水と緑と歴史のまち」の〈緑〉はほぼなくなりつつあるのではないか。

市の広報では、1995年と比較すると2011年の緑被率は13%も減り、36.9%に落ち込んだ、と報じている。市はこれからも開発に歯止めをかける気はないようであることから、市の政策であるグリーンチェーン戦略、「都心から一番近い森のまち」のキャンペーンが空虚にみえてくるのは残念だ。

流鉄流山線は、流山市の時代を映す鏡

最後に、開業してから98年が経つ流鉄流山線(単線)について記載したい。TXが開通し、路線バスも増えたことから乗降客が激減し、ラュシュ時は3両編成であった流山線も現在はすべての時間帯で2両編成。それでも流山市役所周辺の流山駅、平和台駅、鰭ヶ崎駅周辺の住民にとっては都心への貴重な移動手段である。「あかぎ」、「流星」、「流馬」、「なの花」、「若葉」と愛着を持って呼ばれる5車体が延長5.7㎞の住宅街を走る。

1972年「砧をうつ女」で芥川賞を受賞した在日朝鮮人作家李恢成は、1979年に発表した『哭』という小説の中で、主人公が妻の実家である流山へ訪問する場面で、総武流山線(当時)の電車を「チンチン電車」と称し、「童話の世界にまぎれこむような不思議な情感におぼれかけた」と1961年のころの流山線沿線を描き、それから8年後の1969年の流山線から見える沿線の風景が現在の〈流山〉を象徴するように描写しているので紹介し、筆をおく。



馬橋駅で総武N線に乗りかえたのは午後二時ごろであった。相変らずの「チンチン電車」。だがいまでは三台連結に変わっている。八年間の内に、人口がこの沿線にふえていたのだ。今更のようにわたしはこの事実に気づかされた。

この沿線は年々ベットタウン化しているのに、なぜかわたしの頭のどこかにいつも末枯れたけ景色がひろがっていたのであった。どうしてこんな錯覚を永いこともちつづけていたのであろうか。無人駅も減った。かつて見晴すかぎり、畑また畑だったのに、高層団地がすぐに視界に割って入ってくる。造成中の土地ではダンプカーが赤土をのせて走り、葉を落としたくぬぎやかしの木が取りのぞかれようとしている。常緑樹のすぎの木がみえる小山もいつかは崩され、さらに地にとってかわるのもそう遠い日のことではないのではあるまいか。(『哭』より)

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